メールの絵文字進化論

メールが苦手です。特にケータイのメール。
なんかね、怖い感じになるんですよねぇ。他意は無いのに怒ってるような感じになってしまうのです。あまり長い文を打つのも悪いかなーってのと、ケータイだと打つのが面倒くさいと言うことで、100文字程度のメールになるんですが、そうすると感情を入れるのが難しい。
twitterは140字以内ですが感情を表現しやすいのは、リアルタイムであることと複数発言することが出来ることからですかねぇ。あとは対象が決まってない発言が多いからかなー。
んで、ケータイのメールには絵文字って便利なものがあるのでそれで感情を表すことになります。「今日はお疲れ様(笑い顔)」みたいな。短い文でもストレートに感情を表す記号として、絵文字はとても使い勝手が良い。
このように僕は絵文字を文章の補足説明に使うのですが、これって一般的な使い方でしたよね。でも最近の人は更に進んだ使い方するんだよなー。例えば、今までは「星が綺麗だよ☆」と書いていたところを「☆が綺麗だよ」とか書くわけですよ。つまり、絵文字を1つの言葉として、象形文字として使うのです*1
これって結構面白い使い方だと思うんですよね。いままでは説明のために補足的に使われていただけの文字が意味を持つようになる。つまらないことですが、実は表現方法として大きな質の転換なんじゃないかと思うのですよ。文法としても、今までは文末でしか使われていなかった絵文字が、文の途中にバンバン出てくるわけですし。いや、本当に細かくてつまらないことなんですけど。
最近種類の増えた絵文字を見ていると感覚を伝えるためや明るく見せるためというよりも、単語として機能するための絵文字が増えてきたような気がします。未来になって、絵文字の文化を知った人は「絵文字は文字として働くものである」と認識して、その効果に付随してメールを明るく見せる効能があるとか思うと思うんですけど、実は「感覚」を伝えるために発達したものが違う機能を持つようになったと言うのが(たぶん)正しい流れなのですね。

結語

僕たちは何かの成り立ちというものを良く考えることがあります。分かりやすいことで言えば「進化」というのもそうですし、「犯行の動機」なんかも何かしらの要件で成り立っているのだろうな、と予想します。でも、結構本当の歴史というか流れみたいなものは予想とは異なることが多いんじゃないか、と思ったのでした。
そして、その成り立ちの歴史というものはとても細かく、そして綺麗に連なっているんだろうなぁって。僕も傍から見るととてもフラフラと道を歩いてきましたが、不思議と全てのことは連続的につながっているのです。そして、そのそれぞれの道がつながっているからこそ、全ての経験が今に生きている(といいなぁ)と思うのです。
おまけ:昔の手紙を書いていた人ってどんな風にして文に気持ちを載せていたのかな、と気になりますね。短歌なんかはあの短い中に気持ちを載せられるのだから凄いことだなぁと思います。

*1:「最近」という言葉があまり最近を指していない気がしますが仕様です