閉幕と新作

このブログをはじめて一年くらいが立ちました。
当初の目的である「ネット人格を作る」は達成されたと思います。たぬきはたぬきの言葉を発しますし、たぬきとしてオフ会を開きますし、僕に文句を言ってきたりすらします。多くの人のお陰でそれは達成されました。
ただ、この達成のほとんどはtwitterによるものであることは否めません。そういった意味でブログを書く意味を僕は把握出来ていないのかもしれません。もう少しいってしまうと、情報を交換することの意味は理解しましたが、発信することの意味は理解出来ていません。
そこで、twitterを中心に活動するたぬきと、ブログを中心に活動する人の人格をわけることにしました。傍目から見ると別に違いはないのかもしれませんが、僕の意識として明確にわけてみたいのです。
ということで、「たぬきのねどこ」は閉幕いたします。今後たぬきはtwitterで暮らします。
飼い主の方はこっちでブログを書き始めました。たぬきとつながりは切りませんが、たぬきを意識せず書いてみようと思います。
今までありがとうございました。

目標を目的と間違えないこと

なにかやりたい事があったとしましょう。
ただ「やりたい」と言うだけで終わってしまう人もいます。
もうちょっと強く「やりたい」と思っている人は、目的を達成するためのプランを立てます。プランのステップを具体化し、行動に落とし込みます。
更に強く「やりたい」と思っている人は、それぞれの行動を評価する方法も考えます。一つ一つの行動が出来ているのかを定期的に評価して、目的へ効率的に向かおうとします。

だらだらっと書きましたが、要するに「本当にやりたいことがあるのなら、目的を行動に具体化し、行動を計測するモノサシを使って客観的に観測しましょう」ってことです。当たり前のことですね。
当たり前のことなんですけど、たまにこの当たり前のことを忘れて、本末転倒が起こってしまいます。点数や評価といった観測結果が目的になってしまいます。
特にwebでのSNS的な活動は本末転倒になり易いのではないかな、と思います。webでのそういった活動はなかなか目的を明確にするのが難しいものです。それに対して、ページビュー、はてブtwitterのfavなど、webでの行動結果はデジタルな数値として現れやすいです。ですから、そういった数値を目的にしたくなるかもしれません。*1
ハイスコアをたたき出すことは確かに難しいし嬉しいことです。そこすらも潔癖に否定するつもりはありません。しかし、そこに酔いしれてスコアが目的になってしまうのは本末転倒です。本質は自分がやりたいことであり、他人によるスコアはあくまでオマケなのです。
自らを由とするように生きたいですね。

*1:もちろん企業用サイトなどページビューが目的と大きく相関している場合もあるでしょう。ただその場合は、サイトの目的が明確であり、その下にぶら下がる形でページビューというパラメーターを見ているのです。優先されるのはサイトの目的です。

知識としての情報、トリガーとしての情報

遅ればせながらtumblrを使い始めた。
元々tumblrのシステムは知っていたのだけど、様々な情報をゴチャゴチャと置いておく事にはあまり意味がないように感じて使っていなかった。系統立っていない情報は後から参照することも無いだろうとも考えていた*1
その認識を変えたのはtwitterのfav機能だった。他の人がしたツイートの中で自分が気に入ったツイートをお気に入りとして残しておく機能だ。favには有用な情報も下らない冗談も雑然と混在しているのだが、その一覧を後で見直してみたら、意外なことに非常に刺激的で楽しかった。
なんでかなーと考えた結果、情報に対する楽しみ方が変化したからかもしれないな、と思った。以前の僕にとって情報とは知識として蓄積されるものであった。しかし今の僕にとっては、情報はトリガーとして読み手に考えさせるものというものに変容したのだ。もちろん情報には両方の意味があり、そのバランスが変化したということなのだけど。
トリガーであればゴチャゴチャしていても構わない。むしろ現状の思考の枠を壊すことを考えれば、系統立っていないことも長所に変わるだろう。
ちょっと飛躍するけれども、twitterの雑然としたタイムラインの楽しさが説明しにくい理由の1つは、この「情報」に対する認識の違いもあるのかなとも思った。

*1:かといって後で情報をまとめる作業も面倒くさい

自分に出来ないことを考えるより、自分に出来ることを考えること

成長というものは常に連続的、シーケンシャルです。現在の自分に見合ったものを学ばなければ学習効率は決して高くない。だから成長とは常に一歩先の自分に進むもので、現在の自分とかけ離れたものにいきなりなることはほぼ不可能です。
しかしながら、成長を実感する時というのは、往々にして自分の能力にひとつの断続を見つけた時です。あの時出来なかったことが出来るようになった、当時は考えられもしなかったことが当然のように考えられるようになった。連続的に変化する以外にないにも関わらず、断続的な変化を実感しなくては満足感が得られないのです。
あぁ今の自分には何か物足りないな、何か空虚だな、と感じることがあると思います。世界がくすんで見えることがあると思います。それは断続的に変化している自分、成長している自分を感じていないからだろう、と僕は思います。成長とは自分が主人公たる世界を一新することであり、世界を輝かしくするものです。
ただ、そこで成長をしようとして、現在の自分から断続しているものを学ぼうとするのは実は効率が悪い。確かに能力としては断続的なものが得られるでしょうが、今の能力からかけ離れたものを学ぶことは知識が定着しづらいため難易度が高く、また応用が効きにくいので能力を得た時のメリットが少なくなります。何より自分とかけ離れたものを探してきてそれに興味をもつと言うのはかなり難しいことです。
大きな視点で見れば、愚直に自分の裾野を広げていくのが実は最速で成長をする方法なのだと思います。現在の自分に物足りなさを感じたのなら、自分が出来ないことを見つめるのではなく、自分が出来ることを見つめてみるのがいいのではないでしょうか。

Wi-Fiなし

よくわからない内にiPhoneWi-Fiが使えなくなってました。具体的には設定>Wi-Fiのところで「Wi-Fiなし」ってグレーアウトされていて何も操作出来ない状態。
んで渋谷のapple storeに行ってきたんですけど、どうもiPhone自体に問題が起きているので交換するしかないとのこと。アンテナがおかしいのかも?とか。初期のiPhoneではこういう症状出ること多いですねーってちょっと店員さんが言ってました。確かによくあることらしく、apple storeに入って説明しようとしたら、「あぁWiFiなしって出てるんですね」ってやけに対応早かったもんなー。
保証期間内だったからか無償交換してくれました。保証書とか持ってくの忘れたんだけど、iPhoneの場合は向こうでデータを管理しているからいらないんだってさ。
トータルの待ち時間は1時間くらい。最初に予約入れて30分くらい待たされて、作業中にまた30分くらい待たされる感じ。予約してからの時間は休日にしては短かったと思うけど、僕の次の人は1時間待ちとかだったしネットで予約していった方がよさそうですね*1。後半の30分は、ちょっとしたことを頼んでいたのでその為に掛かった時間かもしれません。普通ならもっと早いはず。
店員さんの対応は親切丁寧でした。なんとなく無愛想なイメージがあったのですが、むしろ、こんなことしてくれると嬉しいなーって領域まで進んでやってくれてました。
ってことで「Wi-Fiなし」ってなっている方はお近くのapple storeに行くといいと思います。ソフトバンクストアじゃ対応無理らしいので。あぁ、行った場合は機種交換になるので、バックアップを自宅で取っておくことを忘れずに。

*1:わかりづらいですがhttp://www.apple.com/jp/retail/geniusbarで予約できます/

種の保存と星の瞬き

「あの夜空に輝く星々は、私たちが鑑賞するためにきらめいている」というのと
「生物は種を保存することを目的としている」というのは似ている。

  1. 星は輝く特性を持っているから輝くだけだ。
  2. 僕らが星を観ることが出来るのはその星が輝いているからだ。
  3. 「あの夜空に輝く星々は〜」と信じていても日常生活に問題ない。

倫理的に嫌な現実を受け入れること

大学院で研究をしていたときの話をしようと思う。
そのころ、僕のメインの研究はお世辞にも順風満帆とは言えなかった。あと何年で論文になるのか全く見当もつかない程度には行き詰まっていた。このままでは博士号を3年で取得するのは難しいかもしれない。そのため、保険のために小さな研究も幾つかやっていた。最悪この保険の研究で論文数を稼いで博士号は取得してしまおう、という魂胆だ。
その小さな研究の1つが一応形になった。英語論文として小さな雑誌に掲載された。だが、僕はあまりその研究が好きではなかった。正直に言うならば嫌いだった。科学的なインパクトはほとんど無いと思ったし、精読すればそこかしこに論理的な穴が見られるものだったからだ。実際、その論文を他のところで読んだならば、きっと僕はdisっていたと思う。
だが、結果は結果だ。研究者は結果をアウトプットしなくてはならない。アウトプットが高い評価を受ければ、よりよい環境に行くことができる。よりよい環境ではよりよい結果を産むことができる。そのサイクルを回すためには結果をアウトプットし続けなくてはならないのだ。
たとえアウトプットがそこそこの評価でも、アウトプットがないことに比べれば0と1の違いがある。この違いは1と100の違いよりも大きい。僕は自らの結果に納得行かないながらも、その研究結果を使って学会発表も行うことにした。
学会発表はポスター発表だった。横1m x 縦2mくらいのパネルに結果を張り付けておき、自分はその隣で待機している。そこにもし興味がありそうな人が現れたり、質問されたりしたら掲示したポスターの内容を説明するのだ。会場には数十のポスターが張られていた。
珍しいことに、このポスター発表の場には投票箱があった。来場の際に投票用紙が配られており、優れたポスターがあった場合そのポスターの番号を書いて投票する、というものだった。その投票で上位数名が学会賞を与えられる。
結果から言うと、僕は学会賞を受賞した。自分でも酷く納得のいかない結果を発表したにも関わらず。なぜだろうか。実に単純なことだった。僕はその会場にいる有力な教授の半分とは顔見知りだったのだ。
以前から、僕は色々な研究室の教授たちとコミュニケーションを取るのが比較的好きだった。特に、現在研究していることよりも、もっと根源的な、学問に関するビジョンのような話を聴くのが好きだった。そして教授たちはそんな話が好きだった。だから、理由をつけては他の研究室にも遊びに行ったりしていたのだった。
受賞をした帰りの電車にゆられている中、僕はようやく解った。アウトプットを評価されるためには、内容も勿論重要であるが、同時に評価してくれる対象との関係も大事であることを。この2つが掛け算のようにしてアウトプットの価値を決めるということを。個人間の関係だけでなく、社会的な関係に関してすらそうして評価は決まるということを。ずっと分かっていたことだったけど、このときはじめて「解った」。
この文の最初の方で書いた「評価と環境のサイクルの話」は、研究者にとどまらず、あらゆるところで通用する話だと思う。アウトプットに対する評価はどこの世界でも重要だし、複利的に効いてくる。
それだけに、「評価とは内容だけでなく評価者との関係にも依存すること」が受け入れられたことは大きかった。それが良いことなのか悪いことなのかはまだわからないけど。ただ少なくとも、以前は悪いことだと思っていたことを、どっちか分からないものとして受け入れられるようにはなったのだった。
そして受け入れることで、それを利用する術を覚えた。アウトプットの品質は担保しつつ、アウトプットを最大限に使ってよりよい環境を手に入れる方法を学んだ。そのことは同時によりよい人間関係を作るヒントとなった。また、逆に人を評価するときには、どこまでがアウトプット内容の評価で、どこからが人としての評価なのかを分けて考えられるようになった。*1
たぶん倫理的には、言っている人間が誰かに関わらず、内容だけを評価すべきだろう。ただ、それは現実的ではない。少なくとも現実はそうなっていない。そのことに目を瞑って倫理を振りかざすよりも、事実は事実として受け止めた方が面白くて実際的だったよ、という話。

*1:実際のところ、この段落内容は過去形ではなく現在進行形です。