倫理的に嫌な現実を受け入れること

大学院で研究をしていたときの話をしようと思う。
そのころ、僕のメインの研究はお世辞にも順風満帆とは言えなかった。あと何年で論文になるのか全く見当もつかない程度には行き詰まっていた。このままでは博士号を3年で取得するのは難しいかもしれない。そのため、保険のために小さな研究も幾つかやっていた。最悪この保険の研究で論文数を稼いで博士号は取得してしまおう、という魂胆だ。
その小さな研究の1つが一応形になった。英語論文として小さな雑誌に掲載された。だが、僕はあまりその研究が好きではなかった。正直に言うならば嫌いだった。科学的なインパクトはほとんど無いと思ったし、精読すればそこかしこに論理的な穴が見られるものだったからだ。実際、その論文を他のところで読んだならば、きっと僕はdisっていたと思う。
だが、結果は結果だ。研究者は結果をアウトプットしなくてはならない。アウトプットが高い評価を受ければ、よりよい環境に行くことができる。よりよい環境ではよりよい結果を産むことができる。そのサイクルを回すためには結果をアウトプットし続けなくてはならないのだ。
たとえアウトプットがそこそこの評価でも、アウトプットがないことに比べれば0と1の違いがある。この違いは1と100の違いよりも大きい。僕は自らの結果に納得行かないながらも、その研究結果を使って学会発表も行うことにした。
学会発表はポスター発表だった。横1m x 縦2mくらいのパネルに結果を張り付けておき、自分はその隣で待機している。そこにもし興味がありそうな人が現れたり、質問されたりしたら掲示したポスターの内容を説明するのだ。会場には数十のポスターが張られていた。
珍しいことに、このポスター発表の場には投票箱があった。来場の際に投票用紙が配られており、優れたポスターがあった場合そのポスターの番号を書いて投票する、というものだった。その投票で上位数名が学会賞を与えられる。
結果から言うと、僕は学会賞を受賞した。自分でも酷く納得のいかない結果を発表したにも関わらず。なぜだろうか。実に単純なことだった。僕はその会場にいる有力な教授の半分とは顔見知りだったのだ。
以前から、僕は色々な研究室の教授たちとコミュニケーションを取るのが比較的好きだった。特に、現在研究していることよりも、もっと根源的な、学問に関するビジョンのような話を聴くのが好きだった。そして教授たちはそんな話が好きだった。だから、理由をつけては他の研究室にも遊びに行ったりしていたのだった。
受賞をした帰りの電車にゆられている中、僕はようやく解った。アウトプットを評価されるためには、内容も勿論重要であるが、同時に評価してくれる対象との関係も大事であることを。この2つが掛け算のようにしてアウトプットの価値を決めるということを。個人間の関係だけでなく、社会的な関係に関してすらそうして評価は決まるということを。ずっと分かっていたことだったけど、このときはじめて「解った」。
この文の最初の方で書いた「評価と環境のサイクルの話」は、研究者にとどまらず、あらゆるところで通用する話だと思う。アウトプットに対する評価はどこの世界でも重要だし、複利的に効いてくる。
それだけに、「評価とは内容だけでなく評価者との関係にも依存すること」が受け入れられたことは大きかった。それが良いことなのか悪いことなのかはまだわからないけど。ただ少なくとも、以前は悪いことだと思っていたことを、どっちか分からないものとして受け入れられるようにはなったのだった。
そして受け入れることで、それを利用する術を覚えた。アウトプットの品質は担保しつつ、アウトプットを最大限に使ってよりよい環境を手に入れる方法を学んだ。そのことは同時によりよい人間関係を作るヒントとなった。また、逆に人を評価するときには、どこまでがアウトプット内容の評価で、どこからが人としての評価なのかを分けて考えられるようになった。*1
たぶん倫理的には、言っている人間が誰かに関わらず、内容だけを評価すべきだろう。ただ、それは現実的ではない。少なくとも現実はそうなっていない。そのことに目を瞑って倫理を振りかざすよりも、事実は事実として受け止めた方が面白くて実際的だったよ、という話。

*1:実際のところ、この段落内容は過去形ではなく現在進行形です。