現代語訳 学問のすすめ

壱万円札の人の、言わずと知れた名著である。
「はじめに」に訳者・斉藤孝さんが書いたように、恥ずかしながら僕もこの本を読んだことがなかった。それは矢張り、文語体で書かれていることからの忌避感が理由の1つではあるのだろうけど、教養が無いだけかもしれない。

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)


福沢諭吉さんがススメる「学問」とは、一般的にイメージする「学問」というよりも、【教養】に近い。

実生活も学問であって、実際の経済も学問、現実の世の中の流れを察知するのも学問である。(23p)
飯を炊き、風呂を沸かすのも学問である。天下の事を論じるのも学問である。(129p)

だから内容は「教養を持て」ということであり、道徳的な生き方が滔々と書いてある。御一新後という書かれた時代もあり、「日本国家のためにどうあるべきか」という論調が強いが、書いてあることは現代でも充分通用する「道徳」である。

歯切れのいい道徳書

本書は道徳書であり、現代の視点から見ると当たり前のことしか書いていない。「人をねたむな」「ルールを決めたら守れ」「男尊女卑はおかしい」etc……、本当に当たり前のことが書いてある。*1
だが、当たり前のことをいつも当たり前に思っていることは殊の外難しい

大事なことは、人として当然の感情に基づいて、自分の行動を正しくし、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることだ。(17p)

本書は当たり前のことをとても歯切れよく、また論理的に語ってくれる。あまりの歯切れの良さに説教されている気分にもならないが、不思議と背筋が正される気がした。短い章立てになっていること、現代語訳されスッキリと読めることもあり、座右に置いておき時折読み返したくなる一冊だった。

翻訳の仕事

「権理」という表現が面白かったので一言書いておく。福沢諭吉はrightを「権理」と訳しており、本書の現代語訳においても「権利」ではなく「権理」が使われている。

人間であることの分限を間違えずに世間を渡れば、他人にとがめられることもなく、天に罰せられることもない。これが人間の権理である。(106p)
「権利」ですと、「自分の利益ばかり主張すること」といったように、個人のわがままといったニュアンスを含んでしまいがちですが、本来はそのようなものではないはずです。(242p「解説」)

「権理」とは、責任を全うすることで社会のためになり、また社会から保護される、という相互依存的な「理」であり、与えられる「利」益という意味ではないのだ。「翻訳物はその8割が翻訳者の作品である」というイメージが僕の中にはあるが、rightを訳した福沢諭吉さん、現代語訳をした齊藤孝さんの拘りが此処にクリアに見えた。

*1:「学者は内に篭っているだけじゃダメだ」というのはちょっと耳が痛かった。