「好き」に論理は勝てない

そう、好きという感情に対して論理はあまりにも無力です。否、あらゆる感情に対して、論理は非常に弱い。
論理は、他者に何かを伝えるための道具です。他人は自分とは違う生活を送ってきたのですから、自分とは違う仕組みで動いています。そんな他人に、自分の思ったことや考えたことを理解してもらう。その為に、自分の状況の一部を抽出してきて、それらの繋がりを明示的に組み立てていく。それが(人間関係における)論理と言うものです。
それに対して感情は、今までの人生を通して構築されてきた複雑な自分と言うシステムに、外部からのシグナルが加えられた場合にほぼ自動的に生じるものです。シグナルに対してどうしてそういう反応をするのかは、本人にだって説明できない。反応を起こす主要な要素を幾つか挙げることは出来るかもしれませんが、全ての要素を認識したり言語化することは不可能でしょう。
ですから、一部の言語化しうる要素を抽出してきて形成された論理と言うものは、感情に対してあまりにも卑小なものなのです。論理で感情を説明するのは無謀な挑戦なのです。
ただ、論理がいらない子か、というとそれはちょっと話が違う。前述したように、人と話すためには論理が必要なわけですから。また、感情は飽くまでも主観的なものであり、視野が狭いものです。それに対して単純化した論理は、その分だけ自由に視野の幅を取れる。視野狭窄にならないためには、時に自分を客観的に見ることも必要なわけです。
ということで、まぁ月並みな結論ですが、論理と感情両方が重要であって、またそれらをきちんと分けられることが重要なんですね。感情は感情、それは動かない最小ユニットであって、それと事実を組み合わせていくことで論理を作り、人に伝える。そういう風に明確に分けて話してもらうと、とても理解がしやすいですね。

結語

人に自分の気持ちを伝えるためには、何が自分の最小単位となる感情で、それをどう組み合わせて論理にすれば良いかを考えるといいよ、という話でした。
とはいえ、自分の最小単位となる感情を知ることは容易ではありません。そのためには、自分に対してひたすら「なんで?」と言い続けるのがいいと思います。「なんで?」に対して「好きだから」とか「嫌だから」という答え以外が見つからなくなったとき、それが自分の最小単位の感情なのでしょう。
なんか色々文を削っていたら、当初と全く異なる文になってしまいました。読みにくいかと思います。すみません。