個人が発信することで動くもの。

やりたいことがないなーっていうときが偶にあります。ある程度まとまった時間がある、でもやりたいことが見つからない。忙しい時はやりたいことって色々あるんですけど、いざ時間が出来てみるとやりたいことが見出せないのです。
こういうときってイライラするんですよね。自分に対して。折角時間が出来たのにどうしてやらないんだろう、って。そしてそのイライラが視野を狭め、更にやりたいことを見つけ難くする。負の連鎖です。
昨日僕はまさにそんな状態だったのです。なんだかスッキリしない気分でダラダラとネットサーフィンをしていました。そして何を見てもつまらないなぁと思い、同時に時間を浪費していることを自覚して、更に落ち込んでいました。
その状況を打開してくれたのは、一般の方によるピアノの演奏動画でした。いわゆる「弾いてみた」動画です。その動画を見たときに、ふと現状を打開出来るヒントが僕の頭に浮かんだのです。全くピアノとは関係のないことだったんですが。
勿論、その動画は誰宛に作られたものでもありません。ただ純粋に弾いてみた動画です。また、この動画を知ったのはtwitter上で演奏者さんが自ら紹介してくれたからなのですが、それをポスト(つぶやき)をしたときも誰宛ということもなく発言したものでした。つまり、動画を作るときも、それを紹介するときも、当たり前ですが僕のことなど想定の外にあるわけです。
にもかかわらず、結果的にその動画は僕に大きなヒントを与えてくれた。しかも全く演奏者さんが想定していないだろう問題のヒントを。これは結構面白いことじゃないでしょうか。

下手な機関銃

行き詰ったときは視野がどうしても狭くなります。だから、問題を他の視点からみたり、もっと巨視的に見たりしてブレイクスルーを探し出すことが難しくなる。この視野狭窄という問題を解決するために、人は様々な方法を取ってきました。簡単なものなら気分転換に出かけてリフレッシュすることですし、組織レベルで行うのならコンサルタントを雇うことかもしれません。
そして現在になって、この視野の切り替えというものに、「無数の個人からの情報に曝されること」が選択肢としてあるのではないかな、と昨日の体験から思いました。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、といいますか、全く自分に向けたものではない言葉ばかりでも、ある程度の数を超えると時に自分の役に立つものが現れることがあるのです。逆に、自分へ実際に向けた言葉は、その大半が自分と同レベルの視野から出されることが多く、なかなかブレイクスルーには成り難いものです。そう考えるとむしろ、全く自分宛てでは無い言葉の集まりというのはある程度大きな意義を持っているのではないか、と。
翻って発信者側の面から考えると、自分が発信した情報の何が、誰のどんな役に立つかなんて分からないものだなぁと思いました。どんな情報であれ、価値は全て受信者が決めることなのです。*1

結語

なんだかゴチャゴチャしましたが、結局こう考えると個人が情報を発信するってのは良いもんだなぁという月並みな結論に達しました。
昨今では、文にしろ絵にしろ音楽にしろ、プロレベルの作品で溢れかえっています。そんな中、どのようなレベルにあろうとも自分としてのベストを世に出すことは勇気を要しますが、それだけ貴重なことなんじゃないかと思います。貴方の作品が公開されたとき、誰をどのように感動させるのかは誰にも判らないのですから。
さて、この文は誰かを動かすことが出来たのでしょうか?

*1:ただ、今回もそうであったように、狙っていない鉄砲だったとしても弾が強力であったからこそ届くのであり、その質はある程度問われるのかもしれませんが