見ろ!DNA鑑定がゴミのようだ!

足利事件という事件を知っていますか?

1990年に起きた幼女殺害事件。現場に残された体液と被疑者とのDNA鑑定が決め手となって、被疑者には無期懲役の判決。しかし、20年近く経った今年になって最新のDNA鑑定を行った結果、被疑者のものと一致しないことが発覚した。

今日友人から聞いて、この事件のことを初めて知ったのですが、とても嫌な予感がしたので調べたら、やっぱり「DNA鑑定は信用できない」といった論調の文を幾つか見つけました。



むしろ、この事件から言えることは真逆でしょうよ
「DNA鑑定技術が進歩して、無実の人間が無実であることを証明できるようになった」というのが、DNA鑑定技術を中心においた場合に得られる結論です*1
「信用できない」のは、当時のDNA鑑定技術であって、DNA鑑定自体は信用度が上がったのです。


こわい「DNA鑑定で有罪」 約20年後「間違ってました」 : J-CASTテレビウォッチ
タイトルがアレですが、当時と現在のDNA鑑定についてよくまとまっている記事です。いわく、1991年の技術では「精度は100-150人に1人」であるのに対して、現在では「10の20乗分の1、つまり地球上の全員を1人ひとり特定できるレベルにある」とのこと。
当時の技術では、決して個人を特定することなどできなかったのですね。しかし、それを一番の証拠として使ってしまった。冤罪を作ったのは、DNA鑑定の技術ではないんです。DNA鑑定技術の信用度を100%とし、勝手な結論を出した人達なのです。


僕が言いたいのは、「だからDNA鑑定を絶対的に信用しろ」ということではありません。もちろん「DNA鑑定は信用できない」と言っているのでもありません。
DNA鑑定は道具なんだから、きちんと使え」と言うことです。


元記事では「DNAとかよく分からんし」のようなことを言っている人がいますが、いいんですよ、分からなくて。ただ、「この状態のDNA鑑定では、AとBが同一人物である確率は●%です」ということだけ分かればいい。月並みな例ですが、全員が電話の仕組み知ってて使ってるわけではありません。今回の事件では、精度が100-150人に1人ときちんと分かっていれば、それなりの評価をしたでしょう。その時に「DNAとは何か」を知ってる必要はないんです。


虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか
逆に、科学を矮小化して見る必要もありません。例えば、DNA鑑定と首実検を同レベルで扱うのはおかしいと思います。何百万人のデータベースの中から選ぶ前者と、数人の中から選ぶ後者では大きく信頼率が異なります。あくまでも、「何がどれぐらい信用できるのか」を見るべきだと思います。そのあたりは「利己的な遺伝子」で有名なドーキンスさんが「虹の解体」という本の第5章で語っています。ちょっと古い本ですが。

結語

高校時代、英語が得意な友人が「英語ができてすごいね」と言われたとき、「いや、英語はただの道具だから。重要なのはそれで何するかでしょ」と答えてました。
科学も所詮、道具です。


[おまけ]最近聞いた話では、次世代シーケンサー使えば一日でヒトゲノム読めちゃうらしいので、サンプル状態が良ければほぼ100%の精度で鑑定できるんじゃないかな。

*1:もちろん、冤罪事件自体の社会的な問題としての意義は別の所にあります